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笑わない、その瞳 3

Auteur: 花室 芽苳
last update Date de publication: 2025-09-02 20:24:12

「あ、の……」

 こんな風に上司に聞かれて、素直に「はい、そうです」なんて言える部下がいると思うの? 割とハッキリ言う性格の私だって、いくら何でもそれは無理な話で。

 何と返事をするか迷っているうちに、梨ヶ瀬《なしがせ》さんが私のデスクに両手をついて上半身を近づけてきた。彼の両腕に挟まれて身動きを取ることが出来ない、この人はいったい何を……?

「だからね、この資料はここのデータを上手く使っていけば……ほら、これで出来るでしょ。ねえ横井《よこい》さん、俺の話ちゃんと聞いてる?」

「……っ、ちゃんと聞いています!」

 何をする気なのかと思えば梨ヶ瀬さんは私のパソコンを操作して、私に頼んだ資料の作り方を教えてくれただけだった。それでも背中のすぐ傍に梨ヶ瀬さんの存在を感じ、なんだか落ち着かない。

 こうして教えてくれたのは有り難いと思う、だけどその部下に対する優しさもわざとらしく感じるのはなぜなのか?

「ああ、緊張してるんだ? 心配しなくていいよ、あれくらいの事でいちいち嫌がらせするほど俺は暇じゃないからね」

「別に、そんな事はっ!」

 図星を刺された気がして少し焦った声が出る。だけど梨ヶ瀬さんは涼しい顔で私のデスクから両手を離すと、すぐに他の社員に呼ばれて行ってしまった。

 ……結局、彼はお手洗いでのことは気にするなと私に言いたかっただけ?

 結局悶々としたまま午前中の仕事を終えると、鞄から財布を取り出し社員証を持って食堂へと向かう。お弁当の日もたまにあるけれど、主任たちがいなくなってからは食堂を使う事が多くなった。

 人が多くならないうちに選んで社員カードで会計を済ませると、いつもの決まった席へと座る。いつもこのテーブルにつくのは、私とあと一人……

「今日も早いですね、横井さん」

「おかげさまでね、昔から並ぶのは苦手なの」

 真っ黒なストレートのおかっぱ頭、そして顔には大きな瓶底眼鏡。地味なタイプの代表みたいな容姿をしたこの女子社員は、最近仲良くなった眞杉《ますぎ》さん。一度なんとなく話しかけてから、彼女も毎日のようにこの席に座るようになった。

「そうですね、そういうの横井さんらしいですけど。あら、なにかしら……?」

 眞杉さんが視線を向ける先、食堂の入り口に何人もの女子社員がきゃあきゃあと騒いでいるようで。私もその騒がしい女子の群れを眺めていると、その真ん中にニコニコと笑う梨ヶ瀬さんの姿。

 ……うわあ、何よあれ? わざわざ、あっち見なきゃよかった。

 すぐに梨ヶ瀬さん達から視線を外し、食べ途中の昼食に目を向ける。さっきまで美味しそうだった昼食のはずなのに、なんだか胃がムカムカしてくる気もして……

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  • 唇を濡らす冷めない熱   許さない、あの過ち 9

     それでも……ほら、結局こう返してくるから何度も期待して良いのではないかと考えてしまう。繰り返し「そう上手くいくはずがない」と思い直すことに、私の方が疲れてしまうくらいには。 これも梨ヶ瀬《なしがせ》さんの作戦のうちなのだろうか? そう疑ったりしている間に、いつまでもムキになっている自分が馬鹿みたいに思えて。 恋愛には一生懸命にはなりませんって涼しい顔してたくせに、本気になるとこんなにしつこい男性だったなんて……そんな事を考えていたら、彼から予想もしなかった言葉を聞かされて。「もしも過去の出来事が理由で俺とは向き合えない、とかなら尚更ね」「……どういう意味ですか?」 もしかしてこの人は知っていたりするの、私の過ちを? いいえ、そんなはずはない。あの事をこれまで誰にも話したことなんてない、こっちに来たばかりの梨ヶ瀬さんがそれを知る方法なんてない。それでも……もしかしてと怖くて手が震える。 どのみち隠し通せないと頭では分かっていたのに、いざこうして突き付けられると怯えてしまう。向けられていた好意が嫌悪に変わる瞬間、私はどう梨ヶ瀬さんと向き合えば良いのだろう? そのまま彼から距離を詰められるがつい焦って後ずさってしまい、逆に手首を掴まれ梨ヶ瀬さんの腕の中に引き寄せられてしまった。「そのままの意味だよ? 麗奈《れな》の過去に何があったのか俺には想像もつかないけど、それを断られる理由にされては困るって事。俺という人間からまで目を逸らしてほしくはないしね」「そんな事を言われても、私は……」 自身の過去を言い訳にしないのならば、それこそこの人の気持ちに応えられない理由などある訳がなくて。こういう計算高く狡猾な部分も理解しているはずなのに、今もまだこうやって振り回されている。 だけど梨ヶ瀬さんからすれば当然の要望とも言える、自分には一切関係ない理由で向き合う事もせずフラれるなんてそれこそ納得出来る訳がないもの。 だったら、私はどうすればいいの? 気持ちも誤魔化せないお互いの距離と、暴かれそうになる自身の隠したい過去に心臓が今までにないほどギュッとなる。 けれども発した声は自分でも驚くほど落ち着いていて、ある意味どこか吹っ切れた感じもした。「……じゃあ、全部受け入れてくれるんですか? 私が梨ヶ瀬さんの今まで築いてきたキャリアも潰しかねない、そんなとんでも

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  • 唇を濡らす冷めない熱   許さない、あの過ち 6

     それはそれは、見た目と中身にギャップが有り過ぎてとても残念です。その時や場合に応じて軽めの恋愛を楽しんでそうな雰囲気なのに、想像以上に梨ヶ瀬《なしがせ》さんはしっかり真剣交際をしたいタイプらしい。 だから、なおさらこの人の相手が自分じゃ駄目な気がして……「私は梨ヶ瀬さんが思ってる程、価値のある女ではないと思いますよ?」「俺の中での麗奈《れな》の価値は、君じゃなく俺が決めるものだよね? 少なくとも自分にとって麗奈は、唯一無二の存在だし」 何を言っても全部こうして返してくるから、興味を無くしてもらう事も出来ない。諦めが悪いと自負しているだけあってか、それはもう手強すぎて。 梨ヶ瀬さんは私には勿体ないくらい素敵な男性だって、自分でも分かってるけれど……どうしてこの人は、もっと自分に合った女性を選ばないんだろう? 仮に付き合ったとしても、きっといつか私にがっかりするに決まってるのに。「ねえ、またうだうだ難しく考えてるでしょ? どうして麗奈は好きか嫌いか、それだけで俺を見てくれないんの。俺は君の何だって、受け止める覚悟はあるんだけど?」「……そんな簡単な問題じゃないでしょう?」 何度もそう言ってくれるけれど、答えがそんな簡単な事だとは思えない。全部の問題をクリアーにして、梨ヶ瀬さんだけを見れたら……その時の、答えは予想出来るけれど。 その感情を認めてしまったら、私はきっと身動きとれなくて余計に苦しくなってしまうから。 なのに……「簡単だよ、難しくしてるのが麗奈なだけで」 そんな風に、何も気にしてないように言うから。「そうなのかもしれないって、自分でも分かってはいるんです。梨ヶ瀬さんの言うように出来れば、きっとずっと生きやすいだろうなと思いますし。でも……私が許せないのは多分、自分自身なので」「その理由は、俺に聞かせてもらえないの?」 その答えも本当は分かってるくせに、そうやって聞いて来るんですよね。少しでも可能性があれば諦めない、その言葉は嘘じゃないって何度も繰り返すように。 素直に言ってしまえば楽になる。そう誰かが囁いても……結局は怖くて言えないの、この人に軽蔑されるかもしれないから。「それを隠したままでは、俺と付き合えない。そう考えてしまうところが、麗奈らしいとは思うけれど。正直な気持ち、好きな女性にいつまでもそんな顔をさせておきた

  • 唇を濡らす冷めない熱   許さない、あの過ち 5

     これ以上、眞杉《ますぎ》さんと鷹尾《たかお》さんの前で揶揄われたら堪らない。そう思った私は、適当な理由を付けて二人と別方向へと歩き出す。梨ヶ瀬《なしがせ》さんにはわざと声を掛けなかったが、どうせあの人は勝手について来るだろう。 どうしてこんな私に執着するのか、何度聞いてもよく分からないけれど。少しずつ信頼するようになって、今では一番この心を揺らす存在になった。「もしかして俺の存在を忘れてるの、麗奈《れな》?」「むしろ存在を忘れさせてくれるような人なら、凄く良かったんですけどね」 存在感が有り過ぎなくせによく言うわよ。私は梨ヶ瀬さんが支社に来て以来、一日だってこの人の事を考えずに済んだ日なんてないのに。 こっちは嫌味でそう言ったのに、梨ヶ瀬さんはその言葉に満足そうな顔をしていて。 ああ、本当に面倒な人と距離を縮めてしまってる。後悔しても、もう後戻りが出来ないところにまで来てる気がして……「ちょっとずつだけど、麗奈の心に俺が存在する割合が増えてるみたいで嬉しいかな」「もう充分過ぎるくらいなんですけどね、どれだけ占領すれば気が済むんです?」 仕事でもプライベートでも無理矢理関わってくるくせに、これ以上を望むというの? そんなベタベタした関係を、この人が好むようには見えないんだけれど。「それはもちろん全部だよ、俺は麗奈を独占したい」「……っ!?」 ああ、もう! 本当にこの人といると頭がおかしくなりそう! こんな蜂蜜みたいに甘い言葉を平気で言えちゃうし、重いくらいの束縛宣言までしてくるんだから。 爽やかさなんてどこかに飛んでいくくらいの激重感情を持っている、そんな梨ヶ瀬さんから逃げられる気がしなくて。 素直になれればきっと楽なはず、彼なら私のどんなところだって受け入れてくれると思いはするのに。 それでもまだ、許せないのは自分自身で。 ……今もまだ記憶から消すことも出来ない、あの日の過ち。 梨ヶ瀬さんはもちろん、紗綾《さや》や御堂《みどう》さんにも話せないまま私の中で今も燻り続けてる。 軽口で周りに愛想を振りまくことも、流行の好きなミーハーなキャラでいるのもそう難しくはないのに。誰かに甘えることが簡単に出来ないのは、それが関係しているからだと思う。 そんな私を梨ヶ瀬さんは、本当にいつまでも可愛いと言ってくれるのだろうか?「……正直、

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    「ええっ? 今からですか、でも……」 この状況ならば、眞杉《ますぎ》さんが迷うのは分かっていた。でもここでは、女友達と言う立場を最大限利用させてもらうことにして。コテンと首を傾げ、彼女に甘えるようにその細い腕を掴んで見せる。 そうやって眞杉さんを鷹尾《たかお》さんから引き離して、私の方へと引き寄せる。そして……「ちょっと聞いてみたんですけど、どうやら今しか空きが無いらしいんです。私、どうしてもその店で眞杉さんと二人きりで話をしたくて」「まあ、そうなんですか? 鷹尾さん、梨ヶ瀬《なしがせ》さん! すみません、ブックカフェはまた今度にしてもらっていいですか?」 ほら、見なさい。眞杉さんの優先順位が、鷹尾さんから私に変わっちゃいましたよ? このままでは男二人がこの場に残されることになるが、さて鷹尾さんと梨ヶ瀬さんはどうするかしらね。 そうやって余計な事ばかりを話している男たちを、ちょっとだけ懲らしめてやる。 それくらいのつもり、だったのだけれど……「ああそうだ、横井《よこい》さん。昨夜の事はまだ眞杉さんには話さないでね?」「――っ!!」 まさか不意打ちで、そんな事を言われるとは思ってなかった。一瞬で昨日の夜の事が頭に浮かんで、あっという間に顔が熱くなるのが分かる。 ……こ、この人は本当にとんでもないわ!「ん、昨夜の事って? え、なになに? もしかして二人、何かあったりしたとか……」「鷹尾さんはそうやって、余計な事ばかり気にしなくていいですから!」 こう言う時だけ、嬉々として話を聞き出そうとしないで! 鷹尾さんがいま気にするべきなのは、隣にいる眞杉さんの事だけですよ。 少しくらい焦ればいいと思って言いだした事なのに、まさか梨ヶ瀬さんにこんな風に返されるなんて。「……あの、大丈夫ですか? 横井さん、顔が真っ赤になってますよ」「平気ですよ、頭に血が上ってるだけですから。主に誰かさんへに対する怒りでね」 そう言って睨んでも梨ヶ瀬さんは相変わらずの余裕の表情、本当にむかつく。オロオロと私達を交互に見てる眞杉さんが可哀想になって、仕方なく鷹尾さんに後は任せる事にした。「眞杉さん! 今度は絶対、私と二人きりでお茶しましょうね。邪魔者がいないときに!」「邪魔者って誰だろうね、鷹尾は知ってる?」 私はいま、眞杉さんに話しかけてるん

  • 唇を濡らす冷めない熱   曇らない、その微笑 3

    「あら、そうですか。梨ヶ瀬《なしがせ》さんのご期待に添えられなくて、どうもすみません」 楽しそうな梨ヶ瀬さんを見ると、出てきてしまうのは憎まれ口ばかり。上司である梨ヶ瀬さんに自分の印象を悪く見せてしまっている私もどうかしてる。 それなのに、どうしても彼に好かれたいとは思えなくて…… 「あはは、面白いくらい感情のこもっていない言葉だね。横井《よこい》さんのそういうところ、本当に飽きないなあ」 私は今すぐにでも飽きて欲しいですけどね、貴方に気に入られるなんて大迷惑です。そうやってこの人に、ハッキリと言えたらいいのに。 ……でも、上司相手にそんな事を言うわけにはいかないから。「私はもう

  • 唇を濡らす冷めない熱   曇らない、その微笑 2

    「あの男性が、私を……ですか?」 梨ヶ瀬《なしがせ》さんの言う事が信じられずに、もう一度確認してみる。確かにこっちを見ているように見えなくもないけれど、何故よりによって私なのだろう? だって……少なくとも私には、その男性に見つめられるような心当たりはなかったから。「彼のあの様子だと今日が初めてって、感じではなさそうだけど? 横井《よこい》さんって、結構そういうとこは鈍そうだもんね」 はあ!? 私は今までずっと、周りの人から『鋭いね』言われてきましたけど! そういうとこがどういうとこかは知りませんが、勝手に私の事を理解した気にならないでくれません? そう大きな声で言い返した

  • 唇を濡らす冷めない熱   曇らない、その微笑 1

    酷く疲れる昼休みを終えてデスクに戻れば、机の上には眞杉《ますぎ》さんからと思われるメモが置かれていて。きっと謝罪の言葉が書かれているのだろうなと思うと、鷹尾《たかお》さんに協力すると約束したことが申し訳なくなる。 眞杉さんだってあれだけあからさまに避けるのだから、何か理由があるのだろうに…… 「あーあ、これからどうしよう」 メモの中身を確認して、これから眞杉さんにこの事をどう話すかに頭を悩まる。 この日の午後は仕事が思うように捗らなくて、結局二時間ほどの残業をして帰る事になってしまった。 それが良くなかったのか…… 「あれ? 横井《よこい》さんも帰りはこっち方面なの?」

  • 唇を濡らす冷めない熱   笑わない、その瞳 6

    「あのー、大丈夫ですか? その、眞杉《ますぎ》さんは少し人見知りな所があるので」「……知ってる、これが最初なわけじゃないし」 なるほど。 どうやらこの男性はかなり眞杉さんにご執心らしく、先程眞杉さんから逃げられたショックから立ち直れずにいるらしい。 しかし目の前の男性、スッキリとした短髪にキリッとした顔つきで清潔感がある。人も良さげだし、悪い感じはしなさそうだけど……眞杉さんはなぜ、彼のことを避けているのだろう?「仕方ないんだ。彼女には俺みたいな男は『タイプじゃない』って、一度ハッキリ断られてるし」「えっ、あの眞杉さんがですか!? それっていつの話です?」 あの大人しい眞杉さん

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